UNCE UPON A TIME IN TAIMA

映画をネタ的切り口で適当に書くブログ。更新滞り気味。

なぜワーストを語りたいのか?〜映画を語ることの是非〜

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年末が近づいてくると映画好きの間で行われるのがその年のベスト映画の選出。そしてベストがあるならばその逆にワースト映画も存在する訳なのだが…それに対してこのような意見がチラホラと聞かれる。

 

「ワースト映画を語る必要があるのか?」と。

 

酷評を並べ立てることに何の意味があろうかと。誰かが好きな作品を酷評する必要があろうかと。誰かが観るべき作品を鑑賞する機会を酷評することによって奪いはしないかと。そういう意見ですね。

 

 

私もTwitter上でこう語っていたりします。

が、あくまで自分のスタンスとして酷評もワーストも垂れ流すつもりはなくわざわざワーストなんて語る必要なんてねえじゃねえかという想いがあるというだけでワーストを語ること自体を否定はしません。つぅーかどうでもいいって言っちゃってるし。(だったら言うなや!って話ですけどね。石を投げるなら数日前の私に投げてくださいw)

 

貴方のワーストは誰かのベスト。誰かが好きな作品を悪く言うことはその誰かを不快にさせてしまうかもしれない。どうせ語るのならば楽しい映画のことだけを語る優しい世界がいい。他人へ配慮した上で発言を選ぶ考え方は素敵なことだと思うんです。まあこういう言い方をすると自分のスタンスを自画自賛しているみたいで気持ち悪くなりますけどw

 

酷評、なにかを酷く言うことが他人にネガティヴなイメージを与えることは確かなんだけどでも決してそれだけではない。誰かの酷評によって作品のハードルが下がって自分はその作品を好意的に観れるようになるという場合もある。また他人の感情をそれだけネガティヴに揺り動かした映画ってどんなものかと興味が湧くこともある。各々の捉え方次第ではあります。

 

じゃあ“賛”だけに埋め尽くされた優しい世界が正しいのかというと、中にはあまりにもその作品の絶賛評が多いだの他人の盛り上がりを見て逆に観る気を失くすという天邪鬼な人もいます。だから一概に映画を褒めることだけが正しいとも言えないんですよね。

 

結局のところ、何に関しても賛否どちらもあるというのが自然な形なんです。他人の口に戸を立てることはできない。誰にも気兼ねなく自由に発言をできることが望ましい。安易に他人を揶揄したり侮蔑するようなことさえしなければ。それに私たちは見たいもの聞きたいものを自分で取捨選択できるんです。というか不快なものを見たくないならば自分で取捨選択をすべきなのです。どうにもこういう話になると何故かみんな受け身の被害者になりますけどね。

 

それに映画を観ることにも語ることにも「正しさ」や「答え」を求めすぎかな。映画そのものに賛否あって然るべきなように、このワーストの是非についても色んな意見があって然るべきです。なんかこれについても互いの正しさをぶつけ合うみたいな様相になってしまってて、自分はワーストへ否定的な立場ではあるけどなんかそれは違うんだよな…と思います。

 

ワーストの否定派も肯定派も互いに互いの考えを少し想いを馳せてみるだけでいいんじゃないかと。いろんな意見があって然るべきだと考えるならば違う意見にも耳を傾けてこそです。そこで変に意識しなくてもいい。そもそも単純に割り切れない心のひだを感じたいからこそ映画を観るんじゃないの?

 

まあこのような意見がチラホラと出てきたのってそれだけこの年末にベストとワーストを決めるってこの行事がそれだけ定着したってことですよね。単純にそれだけだと思います。誰にも気兼ねなんてしなくていいから好きに観て好きに語れい。

 

 

 

あら、このブログに似つかわしぬクソ真面目な話を展開してしまいました。まあぶっちゃけ言っちゃうけどどうでもいいじゃん!個人のベストなんてワーストなんて!!そんな話よりさあ……

 

誰のベストにもワーストにも入らなかった、忘れ去られてしまった映画の話でもする?それともY談でもしましゅか?

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